タイトルの様な事を折りに付け書いてきた。こういう書き方だと村上春樹の小説だけがメタ小説の様に聞こえるがそういう訳でもない。
作者自身がおのれと世界との関わりあい方について記述したものであればそれはメタ小説たりうるはずだ。
えっ?そうじゃない小説があるのですか?小説ってみんな「作者自身がおのれと世界との関わりあい方について記述したもの」ではないのですか?という問いがおそらく発せられると思う。
例えば、単純に物語の面白さを追求したもの、推理小説、恋愛小説、冒険活劇、SF、私小説、あるいはいわゆる純文学(?)。これらはいかに人物描写に優れていて人間の内面を描ききっていたとしても、それだけではやはりメタ小説とは言えない。なぜなら通常これらは「世界」を信じきって描かれているからだ。確固とした「世界」の存在を大前提としてその上に小説を構築している。
まあ、そりゃそうだ。自分も含まれてるはずのこの世界自体の在り方がわからんちんな状態であれば、もはや自分自身の存在すら危うい。そんな状態では1秒たりとも生きていけない。でも村上春樹の小説の主人公はだいたいにおいて、世界との関わりあい方の危うい地点に立ってうだうだしている。
私が好きなのは「世界の終わりとハ−ドボイルドワンダーランド」までだが、おそらくこれが書かれたあたりの時代までが、世界との関わりあい方という問題がかろうじてぎりぎり切実な時代だったのだろうと思う。いや、本当はとっくの昔に人間存在と世界との確固たる結びつきは失われていたはずだ。日本においては近代化が完了した時点で。そして、人間が生きてゆく積極的な意味というものが、以降は存在しなくなる。
もちろん、そんな事は気にせずそれ以前と同じように生き続けてもよいのだけど、村上春樹の小説の主人公はこの事に引っかかってしまう。そして村上春樹はこの事にひっかっかた最後の作家なのではなかろうか。だからこそ特異点なのだ。
メタ小説という言い方をしてしまうとなんかメタレベルに立って見下ろしているようにも受け取れる。もちろん動機としてはそれもありうるけど、結局のところ自らが依って立つ世界そのものが危うい訳だから、むしろ足下が気になって一歩も動けないという事になってしまう。自分自身の存在そのものも危うい訳だからほんとに自らの在り方について確かめながら進んでいくしかない。勢い自己言及的になる。
しかし自己言及的な表現形態こそがホントの意味でラディカルな芸術だと思う。小説に限らずあらゆる表現形態で自己言及性を失ったものは、単なるエンタ−テインメントに過ぎないし、いずれエンタ−テインメントであることすら難しくなってくる。
ある表現形態が確立して、表現者のライフパス的なものすら確立されているところに、それを信じきって生きている表現者を見るとげんなりするし、そんなものにお金を払いたくない。最近CDが売れないというのはそういう事だと思う。
話が飛んでしまった。しかしながら村上春樹が存在のゼロ地点を通過して何か確固たるものにたどり着けたのかというとどうもそうではないように思う。しかし村上春樹でなくともゼロ地点通過後の価値観を予言的に提示できた人間は多分いないと思う。せいぜい歴史が終焉したと言ってみたりする事しかできないだろう。
例えば柄谷行人が提唱し、そして頓挫したNAMのようなもの、あるいはまだ見ぬWeb2.0的なシステム、そういうものを先見的に提示できたとしても、いやむしろ提示してしまってはいけないのだ。資本主義はどんなシステムであれ取り込んで自らに都合の良いように変更して、そして消費し尽くしてしまう。人間の恣意的な理念なんぞあっという間に飲み込まれてしまう。理念であったり意図であったりせずに、本当に自然に人類に浸透していくような価値観でなければ結局は資本主義に良いように利用されてしまうだろう。
少しずつじわじわと高度な市民社会が広がっていくのを待つしかない。それまで地球がもつかどうかだけど。
その様な無力感を村上春樹の小説からは感じ取れるような気がする。
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