村上春樹とは何か?

「村上春樹をどう読むか」

また同じような本を買ってきてしまった。

んで、この「村上春樹をどう読むか」をどう読むか。

時流にのって出しやがったな、という感がなきにしもあらず。「はじめに」に書いてある事はその言い訳ととれなくもない。まあ、いい。

著者は常にあちら側というものを意識して村上春樹を読んできたようだ。というか言われてみれば、作家はあからさまにあちら側を連想させる様に書いてきている。でも私はなぜか、これを全く意識せずに今まで読んできたような気がする。なんでだろ?無意識で避けてきたとしか思えない。根がノーテンキなんだな。しかし、そういうふうに読んでこなかったものは仕方がない。もっかい18の夏からやり直す事も出来ん。

さて、村上春樹について賛否がわりとまっぷたつに別れがちだと思うんですが、良いって言う読者って、純粋に作品自体が好きなんだろうと思うんだけど、評価しない人達は、どっちかつうと、構造的に納得いかないからダメと言ってるような気がする。つまり世界との関わりあい方とか、世界との距離感とかね。それもわかる。

でもね、読者はそんなにバカじゃない。世界中でハルキブームがおこっているけど、世界中の読者だってやがて気付く。むしろこれを(つまり村上春樹の作品を)踏絵として次の段階へ行けないだろうか。

いや、それがどんなものなのかも判らないけれど、もう分析は充分じゃなかろうか。

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「世界は村上春樹をどう読むか」読了

タイトルの問いにそのまま答えるならば、

「日本での読まれ方と特に違いはない。」

という事になると思う。それは村上春樹の文章が平易で受け入れ易いものであると同時に、世界もグローバルで平坦なものになったという事だろう。アメリカをのぞけば、日本は世界に先駆けて高度資本主義がもたらす高度に洗練された消費社会というものを味わった。東アジアが発展し始めた頃、私は思った「彼らもやがて資本主義の悲哀を感じる様になるんだろうな」と。それは結局、村上春樹ブームという事で表されている様に思う。

そして村上春樹ブームが押し寄せていないのは、本書の「村上春樹 世界翻訳地図」によると、アフリカ・イスラム圏・南米という事になる。つまりそういう事だ。

実際のところ、私自身は最近の村上春樹の作品をそれほど熱狂的には読んでいない。むしろ ”可愛さ余って憎さ百倍” 的な感じすらする。作風が変ってしまったのか、私が変ってしまったのか、それは良くわからないけれど。

現在、村上春樹ブームを迎えている国でも熱狂が覚めて、副作用的な反発が現れてくる事もあるかもしれない。

さて、「世界文学」という言葉がでてくる。そもそも、近代文学というのは国民文学に他ならない。国民国家は文学によって補強される。文学が国民を形成する。そして一旦国民国家が形成されるとそれ自体が固定化される。文学と国家は共犯関係にある。それぞれの国家及び文学は独自であるけれど、その生成のメカニズムは実は同じであったりする。柄谷行人は各国語に翻訳された「日本近代文学の起源」について「ここに書いてある事は我国でおこった事と同じだ」という意見を多く聞くという。国民はその生成期において文学を必要としたわけだ。

よその国の事は知らないが、現在の日本では文学は終わったと言われて久しい。 近代化が完了したあたりが近代文学の終わりの地点らしい。国民としての共通認識の確立という意味ではもはや文学は機能しない。仮に世界国家というものを想定して、そこに世界国民というものが生まれるならば、そしてそれは基調講演でリチャード・パワーズが語ったような相互に働きかけるような関係性となるならば、そこでは共通認識としての文学というものが必要になってくるかもしれない。それはあるいは文学という形をとらないかもしれないけれど。。。

世界的に広く読まれている作家はたくさんいるが、ある種の共感をもって広く受け入れられている作家は非常に稀なはずだ。世界国家だか何だか解らないけれど、既存の国家と結びついた国民文学とは違う形で「世界文学」を必要とする人達がいるという事だ。

私自身、今となってはぼんやりとした嫌悪感はあるものの、若い頃に、私の心をがっちりと捕らえてしまったものがなんであったのか(そのツメあとは今尚深い)、それを確認する為に比較的初期の作品を読み返す事はある。

「世界文学」という文脈でもう一度読み返してみても面白いかもしれない。

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「世界は村上春樹をどう読むか」

村上春樹いろいろ」:東京猫の散歩と昼寝 さんで同名のシンポジウムの事を知る。

こりゃぁ『文学界』のバックナンバーでも買おうかなと思っていたところ、本日、ふらっと立ち寄った書店にて単行本化されたものを発見。

まだ冒頭部分を読んだだけ。

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村上春樹の小説がメタ小説であるという事について

タイトルの様な事を折りに付け書いてきた。こういう書き方だと村上春樹の小説だけがメタ小説の様に聞こえるがそういう訳でもない。

作者自身がおのれと世界との関わりあい方について記述したものであればそれはメタ小説たりうるはずだ。

えっ?そうじゃない小説があるのですか?小説ってみんな「作者自身がおのれと世界との関わりあい方について記述したもの」ではないのですか?という問いがおそらく発せられると思う。

例えば、単純に物語の面白さを追求したもの、推理小説、恋愛小説、冒険活劇、SF、私小説、あるいはいわゆる純文学(?)。これらはいかに人物描写に優れていて人間の内面を描ききっていたとしても、それだけではやはりメタ小説とは言えない。なぜなら通常これらは「世界」を信じきって描かれているからだ。確固とした「世界」の存在を大前提としてその上に小説を構築している。

まあ、そりゃそうだ。自分も含まれてるはずのこの世界自体の在り方がわからんちんな状態であれば、もはや自分自身の存在すら危うい。そんな状態では1秒たりとも生きていけない。でも村上春樹の小説の主人公はだいたいにおいて、世界との関わりあい方の危うい地点に立ってうだうだしている。

私が好きなのは「世界の終わりとハ−ドボイルドワンダーランド」までだが、おそらくこれが書かれたあたりの時代までが、世界との関わりあい方という問題がかろうじてぎりぎり切実な時代だったのだろうと思う。いや、本当はとっくの昔に人間存在と世界との確固たる結びつきは失われていたはずだ。日本においては近代化が完了した時点で。そして、人間が生きてゆく積極的な意味というものが、以降は存在しなくなる。

もちろん、そんな事は気にせずそれ以前と同じように生き続けてもよいのだけど、村上春樹の小説の主人公はこの事に引っかかってしまう。そして村上春樹はこの事にひっかっかた最後の作家なのではなかろうか。だからこそ特異点なのだ。

メタ小説という言い方をしてしまうとなんかメタレベルに立って見下ろしているようにも受け取れる。もちろん動機としてはそれもありうるけど、結局のところ自らが依って立つ世界そのものが危うい訳だから、むしろ足下が気になって一歩も動けないという事になってしまう。自分自身の存在そのものも危うい訳だからほんとに自らの在り方について確かめながら進んでいくしかない。勢い自己言及的になる。

しかし自己言及的な表現形態こそがホントの意味でラディカルな芸術だと思う。小説に限らずあらゆる表現形態で自己言及性を失ったものは、単なるエンタ−テインメントに過ぎないし、いずれエンタ−テインメントであることすら難しくなってくる。

ある表現形態が確立して、表現者のライフパス的なものすら確立されているところに、それを信じきって生きている表現者を見るとげんなりするし、そんなものにお金を払いたくない。最近CDが売れないというのはそういう事だと思う。

話が飛んでしまった。しかしながら村上春樹が存在のゼロ地点を通過して何か確固たるものにたどり着けたのかというとどうもそうではないように思う。しかし村上春樹でなくともゼロ地点通過後の価値観を予言的に提示できた人間は多分いないと思う。せいぜい歴史が終焉したと言ってみたりする事しかできないだろう。

例えば柄谷行人が提唱し、そして頓挫したNAMのようなもの、あるいはまだ見ぬWeb2.0的なシステム、そういうものを先見的に提示できたとしても、いやむしろ提示してしまってはいけないのだ。資本主義はどんなシステムであれ取り込んで自らに都合の良いように変更して、そして消費し尽くしてしまう。人間の恣意的な理念なんぞあっという間に飲み込まれてしまう。理念であったり意図であったりせずに、本当に自然に人類に浸透していくような価値観でなければ結局は資本主義に良いように利用されてしまうだろう。

少しずつじわじわと高度な市民社会が広がっていくのを待つしかない。それまで地球がもつかどうかだけど。

その様な無力感を村上春樹の小説からは感じ取れるような気がする。

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村上春樹の生原稿流出

インフルエンザで寝込んでいる間にこんな騒動が持ち上がっていたとは。

内田樹の研究室: 村上春樹恐怖症。エントリーの内容自体には個人的に興味を引かれる所はなかったのだけど、エントリーのタイトル及び最後の一文に含まれる「村上春樹に対する集合的憎悪」というのに興味を引かれた。

日本の文壇あるいは一部の批評家には「村上春樹恐怖症」とか「村上春樹に対する集合的憎悪」なるものがあるのだろうか。

村上春樹は日本文学におけるある種の「特異点」であると言うのは、既に共通認識だと思う。まあもちろん「そんな風には感じなかった」というのもありだし、おしゃれな文体やストーリーテリングに魅力を感じている読者にとっても、そんな事はどうでも良い事だとは思いますが。。。

私も村上春樹については何度かエントリーしてるのだけど、なにがどう「特異点」なのかについて書いたエントリーは誤って削除してしまった。という事で改めて書いてみる。

なぜ村上春樹の小説だけが特別なものに感じてしまうか。多分それは村上春樹の小説がメタ小説だからだろうなどと言う事を以前書いた。表現としてはちょっと不適切というか不親切な気もするが、何が言いたかったかと言うと、小説が成り立つ為の基盤そのものを疑っている。自らが立脚する足場そのものを疑っているからだろう。つまり個別の小説から見てそのメタレベルが視野に入っている。クラインの壷のように、一作品としての小説でありながら、表現形式としての「小説」総体でもあるような入れ子状態にある。そして表現形式としての「小説」総体を図らずも否定している、というかここが限界だよと指し示している。

村上春樹の小説を読むと他の小説が読めなくなる。村上春樹の小説以外は単なる「物語」にしか思えなくなる。もちろんこれは極論であって、私だって他の小説を読んだりするのだけど、村上春樹の小説を読む以前には戻れない。なにかある種の諦観とともに他の小説と付き合う様にならざるをえない気がする。

ここで言う日本文学がイコール日本近代文学ならば、いや多分あらゆる国の文学が近代文学なのだと思うけど、近代の終わりとともにその終着点なり限界点なりが明確に指し示されるという仕事が、批評家の手によってなされても良い様に思う。「は〜い、ここで〜す。」てな具合に。

いっぺん冗談でも良いからやって欲しい。は〜い、こっからここまでは「小説」です。ほいで,反対側はかつて小説と呼ばれていたもの達です。(プリンスみたいですが)みたいに。直木賞とか芥川賞とかやってますが、××年度以降のは小説じゃありませ〜ん。って。

これを曖昧にするから憎悪とかがうまれるんじゃなかろうか。いやそんな憎悪とか恐怖症とかがほんとにあるのかは半信半疑ですが。それに、かつて小説と呼ばれていたもの達が小説より格が落ちるという事でもない。かつて小説と呼ばれていたもの達であっても素晴らしい作品もあるだろうし、小説と称されてもつまんないものもあるだろうしね。

村上春樹自身がこの限界点を超えたとは思えないんだけど、文学というものがすべからず近代固有の問題を扱う必要もないのかもしれない。・・・だんだん論点がぼやけてきたぞ。タミフルの副作用か

・・・

え〜い。人間がタフであれば小説なんて要らないんだよ。近代文学の原動力が近代という動きの副作用というか、鬱屈したものであるならば、みんながブッシュみたくなれば、そんなもの要らなくなるんだよ。××年度以降の小説じゃないものの方が高く評価されるという時代もやってくるかもしれない。(完璧にタミフルの副作用だな)

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