村上龍文学的エッセイ集 其の二

残りの3分の1を読み終えた。だいたいがサッカーに関する事であった。

サッカーについて書いていながらもその根底にあるのは旧態依然とした日本的システムへの嫌悪感や憎悪ですね。

先日テレビのゴールデンタイムでで整形に関する番組をやっていた。最近の整形技術や、ちょっとした見せ方の違いで人がどれだけ変われるのか興味があった。かみさんがすごく見たがっていたのだけれど冒頭の部分だけをみてムカムカしてきたので、かみさんには悪いけどチャンネルを変えた。幼い頃からフランケンというあだ名でよばれて、その容姿ゆえに虐げられて生きてきたみたいな前置きなのだけど、整形する事で生まれ変われると思っているようだ。彼女の心に巣食っているものこそ村上龍が憎んだ日本的な価値観だろうと思った。

以前にもエントリしたけど、自ら支配されようとする心理である。この女性も自分を蔑んだ集団の一番下にぶら下がろうとしている。自らの価値観を創出しようとはせず、自分を辱めた集団の価値観で自らをはかり、そこに加わろうとしている。番組を最後まで見ていないのでこれ以上は何とも言えないのだけど、新聞の番組欄を見ると「和田激怒」とあった。さもありなん。そんなうじうじした人間には反吐が出る。しかし怒る資格があるのか。そのような自己を確立出来ていない人間を全国の視聴者にさらし、コメンテーターに怒らせる事で視聴者は溜飲を下げるという図式そのものが腹立たしいし、そこで飯を食わせてもらっている人間は同じ穴のムジナだ。まあ、そもそもそういうていでやっている訳だから、全てうまくまわっていて私だけが蚊帳の外だとすれば、そんなこんなを考える事すらバカバカしくなってきた。

テレビってほんとにやーね。

村上龍の文章が読みにくいと書いたが、あとがきには自覚的にそうのように書いている旨が記されてある。そうでなくっちゃね。

村上春樹の文章がオナニー的であるのとは対照的だ。

でも私はどちらも大好きですけどね。

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村上龍文学的エッセイ集

を(3分の2ほど)読み終わっての感想。ちと早いが全部読み終わる頃には忘れてしまいそうなので、もう書いちゃえ。完読して思うところあればまたエントリーすればよし。


いつもながらに思う事は「読みにくい文章だなあ」という事。なんかスッと入ってこない。誤解を恐れずに言うと文章がへた(言っちゃったよ)。それに特定の分野については内容がかなり陳腐化している。

もちろん書かれてからずっと陳腐化しない文章はまれだし、時事ネタに近い内容であれば尚更だ。しかし、教育や経済など日本の問題点をいち早く取り上げてきたのは彼自身なので、陳腐化しているという事はある意味それだけ広く問題意識が周知された結果とも言える。であれば陳腐化は必ずしも敗北とは言えない。

作家自身しか語りえない個人的な話は上記とは関係なく興味深く面白い。でもまあそんな事はどうでも良い。いや本当はそういうのを読みたくて買ったんだけれど、読んでみると特定の事柄について執拗に書かれている。

日本がおかしい。バブル崩壊後に吹き出た日本の諸問題。その原因を彼は分析する。明治以降すすめられてきた近代化が1970年代の何処かで終わった。しかし日本人はその事に気づかずに明治以降続けられてきたトップダウン的な方法を捨てない。その歪みが顕在化したのが現代であり、失われた10年と言われる所以である。いや1970年代から数えてみると、失われたのは25年ではないかと。異論なし。このような認識も既に共有されているかな。

そして問題点を洗い出していく過程では小説家らしく非常に言葉にこだわっている。単語や文脈の定義を1970年代以前のものから、新しい時代に適合するものへと再定義し、新たな物語を紡ぎだそうとしているようだ。教育、経済、政治、金融。一小説家が憂うものとしてはあまりに対象が大きく、皮肉にもナショナリスティックでもある。「皮肉にも」というのは、彼はある意味日本を憎んでいるのだ。(ただしそれは1970年代以前の日本的なものへの憎悪ではあるが)そんな彼が日本を憂いている。

そんな憎悪や嫌悪感、体制に対する反発などは小説家らしいし、一般的にも文学とはそのようなものと捉えられているかもしれない。そんな小説家が国を憂いて問題意識を持ちそれを広く発言し、実際にかなり活発に活動しているというのもまれな感じもする。

しかしよくよく考えてみるとそうでもないかもしれない。彼が憎悪する1970年代までの一時代、それは近代化が始まりそして欧米へのキャッチアップがほぼ完了した1970年代までだが、近代化のとっかかりとして明治政府が行った「言文一致運動」と彼の行動はオーバーラップするものがあるかも知れない。国家とは文学無くしてはあり得ない。それは国語という問題以外にも、国家のなかでの人間の有り様という意味においてもである。国家と文学は相反するものではなく実は共犯関係にあるものだ。国家とはあまりにも文学的な営為なのだ。

古い時代が終わって新しい時代が始まる。いや正確には「既に随分前に始まっていた」だけど。新しい時代には新しい言葉が必要だ。古い時代の言葉や文脈では物事がうまく伝わらなくなり、そんな状態では思考さえ停止してしまう。明治の文豪たちがしたように、新しい言葉で新しい生き方を語るのはやはり小説家の仕事かもしれない。

つまり村上龍の文章がスッと入ってこないというのはある意味当然なのかもしれない。(ってフォロー出来てる?)

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田舎に帰って思った事

田舎では想像以上に「家」だとか「家督」だとか「家系」だとか「墓」だとかにこだわっていた。誰が継ぐのだとか、誰それには継がせないだとか・・・。こっちの墓に入れるとか、いや入れさせないだとか・・・。こういうの全てを下らないものと片付ける気はないし、もの事が上手く廻っている場合はむしろ秩序が保たれるのかもしれない。しかし既に波状したシステムにしがみついて、その事により憎悪の連鎖が発生しているのを目の当たりにすると、しかもそれが身内の話となると、やるせない気持ちになる。というか一歩引いてみるとかなりバカバカしい話でもある。

何の照査もなくあてずっぽで考えると、おそらく江戸時代あたりに幕府が寺をとおした支配体制として檀家制度を利用して出来た仕組みだと思う。この時点で仏教自体も形骸化しており、まさに人を家とか土地とかに縛り付ける為の制度であったと思う。その後、明治憲法で導入された戸籍制度で家父長制度としてこの仕組みが強化されたんだと思う。ほいでもって人々の生活が豊かになって「立派なお墓」をたてる事ができる様になると本来「記号」以外の何ものでもないはずの「お墓」に積極的な意味が発生してきて「物としてのお墓」にこだわる様になって行ったのではないかと勝手に推察するものである。本来支配する側の理屈でつくられた仕組みだと思うが、支配される側は、ご先祖様とか霊魂とか、自らの出自に対するこだわりや、確立した「家」の構成員としてのプライドがかき立てられる…etc、 と支配する側とは全く違う理由で、自ら支配され続けるこのシステムをさらに強固な物として自己補完&再生産し続けているんだと思う。たとえ既に支配する側がいなくなったとしても。

padma colors さん経由、古代日本は韓国人の支配下。説が正しいかどうかはこの際どうでも良い。芥川龍之介風に言えば土人の酋長でしかない天皇。7世紀あたりに出来たはずなのになぜか建国2千年とか言う人もいたりして、当の天皇家が自らの出自に付いて捏造してそれを流布、維持しようとするのならまだしも、支配される側が進んで神風だとか言うのはよう判らん。

NHKのドキュメンタリーかなにかでアメリカの黒人少年が「歴史の教科書にぼくら黒人が一人も載っていない。・・・」みたいな事をつぶやいてたシーンがあって、確かに思春期には辛いなあとか思っていたのだが、これって日本人にも当てはまるはずだ。肌の色によって現在でもくっきりとその事を意識させられる事がないだけだ。日本の歴史って支配者側の歴史であるはずなのだが、多くの場合被支配者の子孫である我々はなぜかそれを自らの歴史として教え込まれ内面化している。私の祖先なんかたぶん明治に入ってからも竪穴式でやってたはずだし、ついこの間まで裸足で原野を駆けずり回ってたはずだし、まごう事なく土人であったと思う。天皇家の出自だってどうだか判らんのに我が家のそれはといえば何をか言わんやである。なのに「家」とかにこだわってるのである。バカ。天皇家で言えば雅子様問題もそうだよな。なぜにそう自らをがんじがらめにするんだろう?

私の友人に「男尊女卑」を言ってはばからない男がいる。彼曰く「天皇様は国家の象徴ですから大事にしないといけない」。ちなみに彼は「僕は人と同じが大嫌いです」「だから限定品には目がないんですよ」とのたまう。要は自分自身で考えとらんのである。自分以外の誰かが作った価値観に横乗りしているだけなのだ。いやもちろん横乗りそれ自体はやむを得ないかもしれないが、あくまでもお約束であり、その事は自覚しておきたいと思う。

村上龍の「五分後の世界」でアメリカに占領されたにもかかわらず「能」だったか「狂言」だったかを伝承し続けようとしている既に土人と化してしまった部族のエピソードを思い出した。悲しいルサンチマンだ。

しかし、こんな事かいていると私自身がたたり神になりそうだ。

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「歴史と反復」を読んで

歴史と反復を読み終えた。定本シリーズは基本的に再編された物なので何処かで一度読んでるはずなんだけど、はっきり言って全く覚えていない。あとがきで著者自身が言っているように全く新しい一冊として読みました。

めずらしくというか本来の姿と言うべきか文学の批評というかたちをとっています。トランスクリティーク系のダイナミックな理論を期待していると、意外にちまちました話で「なんだ、そんな話かよ」と思わなくも無かったのですが、気持ちを切り替えて読み進んでいくとけっこうじわじわ来ます。タイトルの「歴史と反復」という意味が徐々に伝わってきます。そして歴史の上ではからずも反復せざるを得なかった人たち、そう、はからずもそう生きざるを得なかった人たちの生き様の書でもあります。

著者はその時点の歴史的状況に関わらずより根源的、より本質的な言説を貫いた人、あるいはその様に生きた人を評価しています。そしてそうではなかった人たちを厳しく批判しています。しかし根源的、本質的に生きることは難しそうです。何よりも各々が置かれた歴史的状況が物事の根源や本質を見えづらくしているからです。本書ではその様な状況について構造的に考察しています。そして更に、根源的、本質的だった人たちは自らの内にある構造に還元できない物に突き動かされていたという事についても鋭く指摘しています。

翻って現在、私たちは近代以降に出来上がった、捏造された伝統の上に生きています。それが捏造された物であるとも気付かずにあたりまえの事として受け入れています。この状況で物事の起源について考える事はけっこう困難です。かりにその事に気付いたとしてもニヒリスティックにならずに、堂々と生き恥をさらす事はちょっと私にはむりそうです。気付かないふりをするしかない。でもなんかちゃちゃ入れたいし。

本書では私の大好きな作家、村上春樹についても批評しています。著者はこの作家について「この事」に気付いてはいるけど気付いていないふりをしている、あるいはニヒルに構えてやり過ごしていると批評しています。正にそのとおりだと思います。しかし同時代の作家でこの事に気付いていて、ニヒリスティックではあるにせよそれにこだわって(暗黙利にですが)書いた作家は稀だったように思います。村上春樹の作品「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で主人公は最終的に「たまり」に飛び込みませんでした。当時私は飛び込めば良いのにと思っていました。著者が指摘するような深い意味は無く、そうすれば続編に繋がるのになあ、この話をもっと読めるのになあ、という理由からでした。しかし、この話の中では飛び込みませんでしたが、結局作家自身は飛び込んだのだと思います。その後「生き恥をさらす」的な内容の作品が多くなったのは必然なのかもしれません。その様なかたちでしか続編はありえなかったのかもしれません。(ちなみに同時代のもう一人の村上、村上龍はニヒリスティックにならずに真っ向このことを書いています。特に「五分後の世界」、「ヒュウガウィルス」はしびれます。)

またしても読書体験として最高の部類に入る一冊でした。この人の本はほんとに面白い。常に物事の起源に遡行するというのは著者ならではです。下手な小説なんかより全然スリリングです。間違いなくワクワクドキドキできます。まあ、読書体験としてしかとらえていないところが私の限界なんだと思いますが。。。

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