「日本語が亡びるとき」読んじゃいました。

本そのものもさることながら、いろんな意味で話題になっている「日本語が亡びるとき」ですが、読了しちゃいました。

結論から言うと読まなくても良かった。いや読むんじゃなかった。金返せ。

かのブログ炎上をわき目に、あたしが読んでみようかと思った動機は、ウィキペディアかなんかに、著者が柄谷行人から「あなたは頭の良い人ですね」と言われたとか言われなかったとかのエピソードがあったからで、彼にそう言わせる人ってどんなんだろと興味がわいちゃったからなんです。当初、タイトルが悪いよな、と思いながら読んでました。これじゃ憂国の書じゃん。

日本語とか近代文学とかの認識については、まあその通りだとは思うんですが、それって正に柄谷行人の「日本近代文学の起源」を読んじゃってる人には、おさらいに過ぎない。まあ、普遍語という概念を持ち出してきたあたりは、切り口としては新しいなあ、と思いながらも、それを理論としてどう帰結させるんだろうと、わくわくしながら半分ぐらいまで読み進めた人は多いんじゃないでしょうか。

でもこれって、そういう結論をだす本じゃなかったんですね。全部読んでみるとやっぱり憂国の書でした。

分類「イタ書」

追記
まあ、金返せってのは言い過ぎです。4分の3くらいまでを費やした現状確認みたいな部分については、体験談としても読む価値はあると思います。ただ、その後の、だからこうするべきという部分は、どうもその前からのつながりにかけるというか、何でそうなるのか、全然腑に落ちないんですよね。いや解らなくはない。解らなくはないんだけど、そこまで俯瞰できるんなら、いっそ成り行きにまかせる。っちゅうか日本語亡んでみさせても面白いかも。

「思想はいかに可能か」完読

内容的にも、文体的にもそれなりにムラがある。現在の作品の様にグイグイ引っ張っていくドライブ感はないかもしれない。そんなに難しい事を書いている訳ではないと思うのだが、難解感が漂う。しかし、それなりに面白い。

” 著者自身による解題 ” より

「自然過程論」(一九六八年)
哲学では、年齢のことはまともに扱われて来なかった。老齢に近づくと、急にそれを問題にする人は少なくない。しかし、私は若いときかえって、年齢のことを気にしていた。私は、年齢を「関係」の問題としてとらえたらどうか、と思った。今でも、この視点だけは正しいと思う。

20代後半で、この視点を持ちうるということは、どういう事なんだろう。今までは氏の批評だけに興味を持っていたが、氏自身にも若干興味が湧いてきた。

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「思想はいかにして可能か」をパラッとめくってみて

初期論文集という事で、さすがに著者の若さが感じられる。

まだ読み始めたところだけど、青春というものの醜悪さについて書かれている部分が面白い。江藤淳の言葉として

「彼らは独創を行うと信じて模倣する。最新の世代に属すると信じて、明治以来日本の青年がたえずくり返してきた不毛な情熱を再演しようとする。(・・・・・・)彼らは日本の近代に生きてきた青年の大部分と同様、或はそれ以上に、きわめて信じやすく逆にいえばそれだけ絶望しやすい。これは彼らが自らの行為についてきわめて無意識的であるということの、この上ない証拠に他ならない」

この言葉その物にも同意するが、このように言う江藤淳自身の ”「幻滅」の苦渋 ” の方に共感するなあ。

著者の論法は今と同じくアクロバティックで、流れとして青春を揶揄しているけれど、青春自体が主題ではない。この章のサブタイトルは ” 成熟 ” である。” 成熟 ” 以外にも ” 明晰 ” と ” 自立 ” を上げている。この3つの対比が面白い。

結局のところこの三角形のいずれかの頂点に留まってはいけないのだ。テニスボーイとしては常にスプリットステップ状態でなければいけない。

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日本近代文学の起源

定本化されるのが待ちきれずに、ついこのあいだ文庫本を読んだばかりなのに、結局買ってしまいました。

題名からすると文学についての書のように思う人もいるでしょうが、これは「起源」についての書です。近代文学の起源を問う事は、結局、文学だけにとどまらず、それを成立せしめた広範な出来事、すなわち近代というものについての起源を問う事に他なりません。と、途中迄読んでからここまで書いたのだけど、「文庫本あとがき」に著者自身が同じような事を書いていた・・・。

印象に残るフレーズ、

「精神」なるものはいつもその物質的な起源を忘れさせるのである。

中途半端じゃなくホントにちゃんと遡行すると、起源は物質的なんだろう。物質的。つまりは一回こっきりの歴史性。そしてこの歴史上のポイントをまたいで生きた人以外はそれを忘れてしまう。それをふまえて第1章からの章題、「風景の発見」、「内面の発見」、「告白という制度」、「病という意味」、「児童の発見」・・・をみれば、この本が何を語ろうとしているか、おのずと察せられると思います。

はからずも私はこの本を最近読みました。それまでに著者の本をそれなりに読んでいたので、すんなり読めましたし、ショックを受ける事も無かったのですが。もしこの本を最初に読んでいたら相当ショックを受けていたかもしれません。これほど端的に著者の批評家としての姿勢を表しているものは無いかもしれません。これはもう、あらゆる人に読んで欲しい本です。その上で、この本は出発点でしかありません。あらゆる批評が一旦ここまで遡行するべきでしょう。

しかし、この本が扱っている明治二十年代はもちろん、この本が書かれた当時にしたって、私にしたら全然リアルタイムじゃない。なのになんで私はこの本に書かれているようなことに興味があるのだろう。もちろん書かれている内容が普遍的でその本質が今もってビビットであることは間違いないけど、私と同世代の人間は柄谷行人にはぶち当たらないような気もする。ま、ぶち当たったのは単なる偶然かもしれないけど。もひとつ引用、

それは、言葉によって在る人間の条件の探求にある。誰もそれを逃れることはできない。

私はどうも物心ついた頃から人間を疑っていたような気がする。人間不信とか、反社会的とかじゃなく、人間というもののありかたについて疑っていたような気がする。既に出来上がった世界にポンと産み落とされて生きていくには、世界の在り方や人間の在り方について受け入れるしか無いのだけど、何の疑いも無くそれらを受け入れられる素直な同級生に違和感を覚えたもんだった。何が受け入れ難かったのか?それらは人生の秘密とも言えるもので、歳を重ねることで理解出来るようになったものもあるし、今もって良く解らないものもある。氏の著作を読んで、理解は出来るのだけど「これは理論の為の思考装置だ」と捉えていた事の実践的な答えが、なにげない日常の経験からこぼれ落ちるように手のひらにハラリとのっかる事がある。「あっ。」空を見上げてみる。そんな気がしただけかもしれない。あるいは・・・、やっぱ歳くっただけか。

病み上がりなのに夜更かししてしまった。

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日本近代文学の起源

「日本近代文学の起源」を読み終えた。

つか、これ読んでなかったんですね。著者の事を知ってポツポツと読み始めた頃、当時、既に随分前に刊行されていたこの本を読もうか読むまいか本屋でけっこう悩んだ事を覚えている。正確には買おうか買うまいか悩んでいた。そう、本一冊買うのも惜しいくらい貧していたので。もうじき定本化されるらしいのでそちらを買えば良いのだろうけど、文庫本で手軽なので通勤のお供に読んだ。これから柄谷行人を読もうとする人はこの本から読み始めると良いのだろう。著者の論の進め方が、既に私の中に染み付いてしまっているのか(そのことの是非はともかくとして)、なんかあまりにもすんなりと読めてしまった。著者の事を知って読み始めた当時は1ページ読むのに1時間、と言うと大げさだけど1ページ行きつ2ページ戻りつしながら、ついでに知恵熱なんぞ出しながら読んだ事を覚えている。たぶん当時は一言一句にこだわっていたからだな。いまは厳密に理解出来なくともがんがん読み進んじゃう。次はいよいよ 「定本 柄谷行人集〈5〉歴史と反復」だ。

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